2016年1月24日日曜日
スポーツドライビングの基礎知識 " ヒールアンドトゥ "
ヒールアンドトゥは、MT車のスリーペダルスポーツマシンのドライビングには欠かせな必須テクニックである。
「ヒールアンドトゥとは文字どおり、"ヒール=かかと"と"トゥ=つま先"を利用するテクニックだ。右足のつま先でブレーキペダルを踏みながら、かかとでアクセルを踏むわけだが、なぜこんなテクニックが必要なのだろう。
ヒールアンドトゥは、シフトダウンする際に使用するテクニックだ。とりあえずシフトダウンだけを考えてみた場合、ただシフトダウンしてもエンジン回転が合わない。そのままではクラッチをミートした際に駆動輪が瞬間的にロックしたり、ショックが大きかったり、またはクラッチに無用な負担をかけることになる。
とくに、シフトダウンは大抵がコーナーアプローチの段階で行なうはずだから、そんなときに駆動輪がロックして挙動が乱れてしまうのは避けたい。だから、理想的なシフトダウンは落とすギヤの回転に合わせてアクセルをあおってやりたいわけだ。
ところが、コーナーアプローチではもう一つやりたいことが残っている。そう、ブレーキングだ。これがもっとも肝心なところなのだが、大抵のコーナーはブレーキングして車速を落としてから進入する。ブレーキングなしでのアプローチは考えられない。そのとき、シフトダウンとブレーキングを別々に行うとどうなるだろう。時間がかかって仕方がない。それに、シフトダウンが先ならブレーキングで車速が落ちる前だからオーバーレブする危険性もあるし、ブレーキングが先ならそれだけブレーキングポイントを早くせざるを得ない。つまり、大きくタイムがそがれるわけだ。
そこで、ブレーキングとシフトダウンを同時にやってしまおう、という欲張りなテクニックがヒールアンドトゥなのだ。いうまでもなく、つま先でブレーキングしながら、かかとでアクセルをあおり、シフトダウンを完了する。今やモータースポーツはもちろん、スポーツ走行にもなくてはならない必須テクニックだといってもいいだろう。
ただし、言葉でいうと簡単だが、実際にやってみると初めのうちは、なかなかうまくできないはず。特に右足でブレーキペダルとアクセルペダルを操作するうえに、左足でクラッチを踏み、左手はシフトレバーを操作しなければいけないし、さらに右手はしっかりとステアリングを操作しなければいけない。つまり、4本の手足をフルに、しかもまったく異なる操作を同時に行わなければいけないのだから、難しいのは当たり前。
だから焦ってはいけない。まずはシフトダウンだけを個別に修得しよう。シフトレバーを動かす際に、同時に右足でアクセルをあおってやるわけだ。うまく回転を合わせてシフトダウンできるようになったら、そこで初めてブレーキングも組み合わせてみる。
このテクニックでもっとも重要なのは、うまくシフトダウンすることよりも、うまくブレーキングすること。またブレーキペダルの踏力も一定になるのが望ましい。ブレーキングが不安定では、コーナーへのアプローチも何もあったものではないからだ。
2016年1月21日木曜日
1993年ニュージーランドラリーの想い出
1993年のニュージーランドラリーは、スバルがWRCで初勝利を挙げた記念すべきイベントである。
スバルが本格的なWRC挑戦を始めたのは90年4月12~16日のWRC第4戦サファリラリーであった
当時設立されたばかりのSTi、その初代社長 故 久世降一郎氏が富士重工での最後の仕事として総合プロデュースしたクルマが初代レガシィ。この4WDで2Lターボのクルマが、その後の富士重工の生き方を変えることになるのだが、速いスポーティなレガシィをつくった久世氏は、まずそのクルマのデビュー前に、アメリカのアリゾナ・テストコースで、FIA公認の10万km世界スピード記録223.345km/hを89年1月2日につくりあげた。そして、次のステップ、WRC挑戦を始めたのである。
このレガシィ・グループAは速かった。2戦目のアクロポリスでは、SS1でいきなりのトップタイムをマークするのだが、リタイア。90年は7戦して最上位は1000湖の4位だった。翌91年は9戦して最上位がスウェーデンの3位。3年目の92年は7戦してスウェーデンとイギリスRACに2位。確実に表彰台のセンターポジションには近づいているが、いつもいま一歩で勝てなかった。
この頃、富士重工では次期WRCマシンとなるインプレッサWRXを用意。すでに市販を始めていた。そんなインプレッサは、レガシィをよりコンパクトで、WRCのサラブレッドとして仕上げたクルマである。ゆえにレガシィよりインプレッサのほうが速いことは分かりきっていた。しかし、富士重工の考え方は、「レガシィに1勝を与えてから引退させたい」だったのである。
92年からラリースペックとして開発が始まったインプレッサのグループA仕様。そのデビューは93年8月26~29日のWRC第9戦1000湖ラリーと内定していたのである。
一方、レガシィは93年スウェーデンに3位。これ以降、ポルトガル、コルシカ、アクロポリスとレガシィは戦うが勝てなかった。そして最後に残ったのがWRC第8戦、8月5~8日開催のニュージーランドラリーだった。
この年のニュージーランドは4日間、総距離2032.17km、36個所のSSトータルは573.65kmあった。本命はトヨタ。90年から3連勝、ユハ・カンクネンにディディエ・オリオールのグレートドライバー。そして、過去3連勝のカルロス・サインツはジョリークラブのランチャをドライブしていた。さらにフォードは、ミキ・ビアシオンに、ここへ初出場のフランソワ・デルクールという布陣。一方のスバルは、コリン・マクレーとアリ・バタネン、それに地元のポッサム・ボーン。3台のレガシィを出場させていた。
初回第1レグは、まったくの混戦。サインツ、オリオール、カンクネン、マクレーにバタネン、さらにはデルクールらがトップを走り、結果的にはデルクールの1位で終わった。そして第2レグ。その3本目の有名な"モツ"と呼ばれる狭くてツイスティなロングSSでバタネンがサスペンションを壊しリタイア。残るレガシィは2台となった。このモツを得意とするマクレーは、ここでトップに立った。しかし、それをオリオールが抜いた。次のSS15でマクレーが抜き返したが、第2レグの結果は、オリオールのトップだった。
3回目、ラリーはロトルワからオークランドへと戻る。この日、マクレーはオリオールを抜き返した。そしてマクレーは第3レグ最初でトップに立つと、フォードのデルクールをかわし、最終レグもトップをキープしたままゴールのトラベルロッジへと戻ってきた。
こうしてレガシィ、WRC出場28回での初勝利は、ぎりぎりのタイムリミットの中で実現した。
スバルが本格的なWRC挑戦を始めたのは90年4月12~16日のWRC第4戦サファリラリーであった
当時設立されたばかりのSTi、その初代社長 故 久世降一郎氏が富士重工での最後の仕事として総合プロデュースしたクルマが初代レガシィ。この4WDで2Lターボのクルマが、その後の富士重工の生き方を変えることになるのだが、速いスポーティなレガシィをつくった久世氏は、まずそのクルマのデビュー前に、アメリカのアリゾナ・テストコースで、FIA公認の10万km世界スピード記録223.345km/hを89年1月2日につくりあげた。そして、次のステップ、WRC挑戦を始めたのである。
このレガシィ・グループAは速かった。2戦目のアクロポリスでは、SS1でいきなりのトップタイムをマークするのだが、リタイア。90年は7戦して最上位は1000湖の4位だった。翌91年は9戦して最上位がスウェーデンの3位。3年目の92年は7戦してスウェーデンとイギリスRACに2位。確実に表彰台のセンターポジションには近づいているが、いつもいま一歩で勝てなかった。
この頃、富士重工では次期WRCマシンとなるインプレッサWRXを用意。すでに市販を始めていた。そんなインプレッサは、レガシィをよりコンパクトで、WRCのサラブレッドとして仕上げたクルマである。ゆえにレガシィよりインプレッサのほうが速いことは分かりきっていた。しかし、富士重工の考え方は、「レガシィに1勝を与えてから引退させたい」だったのである。
92年からラリースペックとして開発が始まったインプレッサのグループA仕様。そのデビューは93年8月26~29日のWRC第9戦1000湖ラリーと内定していたのである。
一方、レガシィは93年スウェーデンに3位。これ以降、ポルトガル、コルシカ、アクロポリスとレガシィは戦うが勝てなかった。そして最後に残ったのがWRC第8戦、8月5~8日開催のニュージーランドラリーだった。
この年のニュージーランドは4日間、総距離2032.17km、36個所のSSトータルは573.65kmあった。本命はトヨタ。90年から3連勝、ユハ・カンクネンにディディエ・オリオールのグレートドライバー。そして、過去3連勝のカルロス・サインツはジョリークラブのランチャをドライブしていた。さらにフォードは、ミキ・ビアシオンに、ここへ初出場のフランソワ・デルクールという布陣。一方のスバルは、コリン・マクレーとアリ・バタネン、それに地元のポッサム・ボーン。3台のレガシィを出場させていた。
初回第1レグは、まったくの混戦。サインツ、オリオール、カンクネン、マクレーにバタネン、さらにはデルクールらがトップを走り、結果的にはデルクールの1位で終わった。そして第2レグ。その3本目の有名な"モツ"と呼ばれる狭くてツイスティなロングSSでバタネンがサスペンションを壊しリタイア。残るレガシィは2台となった。このモツを得意とするマクレーは、ここでトップに立った。しかし、それをオリオールが抜いた。次のSS15でマクレーが抜き返したが、第2レグの結果は、オリオールのトップだった。
3回目、ラリーはロトルワからオークランドへと戻る。この日、マクレーはオリオールを抜き返した。そしてマクレーは第3レグ最初でトップに立つと、フォードのデルクールをかわし、最終レグもトップをキープしたままゴールのトラベルロッジへと戻ってきた。
こうしてレガシィ、WRC出場28回での初勝利は、ぎりぎりのタイムリミットの中で実現した。
クルマ本来の機能を突き詰めれば、スポーツカーに行き着く
単なる移動手段としてではなく「運転そのものを楽しむ」ためのクルマ、「走る・止まる・曲がる」といった基本性能をハイレベルで満たしているクルマ。そんなクルマ本来の姿を遵守してつくられたクルマをあえて「スポーツカー」とよびたい。
テクノロジーの進化は、ドライバーから「運転を楽しむ」という要素を奪いつつある。単なる移動手段としてクルマを使うのならそれでもいいだろう。しかし、クルマを操縦し、運転そのものを楽しみたいというドライバーにとっては、なんとも寂しいことである。
どんなにテクノロジーが進歩しても、地球上の乗り物であるクルマは常に地球の物理法則に支配されている。つまり、クルマは重力、摩擦、遠心力、そして空気抵抗といった要素を無視しては走ることができないのであり、さらに極論すれば、タイヤの性能以上の能力を発揮することは不可能なのである。
こうした制約のなか、そのクルマのポテンシャルをフルに引き出してやることが、ドライバーに課せられた本来の使命であり楽しみなのだ。鉄やプラスチックといった無機物で作られたクルマは、人間という有機体を包含することで完結するいわばサイボーグのようなもの。そして、その究極のカタチがスポーツカーといえるだろう。
スポーツカーは決して特殊なクルマではない。走る、止まる、曲がるといったクルマの基本性能をハイレベルで満たし、なおかつドライバーの意思に逆らわないクルマをスポーツカーの定義とすれば、スポーツカーと謳わなくとも、そのジャンルにカテゴライズされるクルマは数多く存在する。
いまこそスポーツカーに乗ろう。
テクノロジーの進化は、ドライバーから「運転を楽しむ」という要素を奪いつつある。単なる移動手段としてクルマを使うのならそれでもいいだろう。しかし、クルマを操縦し、運転そのものを楽しみたいというドライバーにとっては、なんとも寂しいことである。
どんなにテクノロジーが進歩しても、地球上の乗り物であるクルマは常に地球の物理法則に支配されている。つまり、クルマは重力、摩擦、遠心力、そして空気抵抗といった要素を無視しては走ることができないのであり、さらに極論すれば、タイヤの性能以上の能力を発揮することは不可能なのである。
こうした制約のなか、そのクルマのポテンシャルをフルに引き出してやることが、ドライバーに課せられた本来の使命であり楽しみなのだ。鉄やプラスチックといった無機物で作られたクルマは、人間という有機体を包含することで完結するいわばサイボーグのようなもの。そして、その究極のカタチがスポーツカーといえるだろう。
スポーツカーは決して特殊なクルマではない。走る、止まる、曲がるといったクルマの基本性能をハイレベルで満たし、なおかつドライバーの意思に逆らわないクルマをスポーツカーの定義とすれば、スポーツカーと謳わなくとも、そのジャンルにカテゴライズされるクルマは数多く存在する。
いまこそスポーツカーに乗ろう。
駆動方式別ドラテクワンポイントアドバイス MR(ミドシップ)編
重量物であるエンジンをドライバーシート後方に搭載するミドシップカーは、運動性能においてもトラクションの面でも優れている反面、そのレイアウトゆえに限界域での挙動がシビアで、ドライバーに高度なドライビングテクニックを要求するマシンである。
ミドシップカーのドライビングで最も意識しなければならないのが、荷重移動だ。ミドシップとはいうものの、レイアウト的にはRR(リヤエンジン・リヤドライブ)に近いレイアウトのマシンの場合、重量バランスが車両後方に集中しているので、コーナリングアプローチでの荷重移動を的確に行えるか否かが重要なポイントとなってくる。
短時間で強力なブレーキングを終了し、確実にフロントタイヤに荷重を乗せてからステアリングを切る。これがミドシップマシンを速く安全に走らせるための基本中の基本テクニックである。
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