度重なるオイルショックの影響により3年半の長きに渡りモータースポーツ活動を自粛していた三菱自動車は、1981年、ラリー界への復帰を高らかに宣言した。
3年半の中断の間にランサーは新型ランサーEXへとフルモデルチャンジしていた。
三菱のラリー復帰プロジェクトは1981年春よりヨーロッパに輸出を開始した「ランサーEX2000ターボ」をベースにGr.4仕様のラリーカーを作り上げ、当時第一線で活躍していたアウディ・クワトロやルノー5ターボ、フォード・エスコートやオペルといったトップコンテンダーを相手にWRCのスプリントイベントで真っ向勝負を挑もうという志の高いものであった。
ランサーEX2000ターボは1981年のアクロポリスラリーでデビュー戦を皮きりに、1000湖、サンレモ、RACに参戦。最終戦のRACではアンドレ・クーラングのドライビングにより総合9位に食い込む健闘を見せた。
翌1982年、チームラリーアートからエントリーした2台のランサーEX2000ターボのうち、ペンティ・アイリッカラがドライブするマシンが総合3位入賞を果たした。
上位の2台が当時破竹の勢いで快進撃を続けていたアウディ・クワトロ(優勝がハヌー・ミッコラ、2位がスティグ・ブロンキスト)であることを考えれば、それに次ぐ3位というポジションがいかに価値のあるものであるかが容易に想像できるだろう。
その結果、ランサーEX2000ターボは「2ℓクラス2WD車世界最速の乗用車」と称賛され、世界中のラリーファンやスポーツカー・エンスジャストに広くその名を知られることとなったのである。
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