1975年に日本で公開されたアメリカ映画「バニンシングin 60(原題 Gone in 60 seconds)」は、2000年、ドミニク・セナ監督により、ニコラス・ケイジ主演でリメイクされた「Gone in 60 seconds」のオリジナル作品であり、現在でも語り継がれる伝説のカーアクション映画である。
上映時間99分のうち、後半の約40分間がカーチェイスという前代未聞のこの映画には、52台の高級車やスポーツカー(キャデラック・エルドラド、リンカーン・コンチネンタル、オリー・ブロンコ、フェラーリ、コルベット、シトロエン、ジャガー、ロールスロイス、ベンツ、シボレー、フォード、ロータス、ポルシェ、ダッジ・チャレンジャー、クライスラー等々)を含め116台ものクルマが登場し、そのうちパトカー40台を含む93台がスクラップとなる。
この映画のもう一人の主役とも言えるのが、後半40分ものカーチェースを展開し、執拗に追いすがるパトカー軍団を蹴散らす1973年型フォード マスタング マッハ1「エレノア」である。
「エレノア」とは、劇中で窃盗団が使用するコードネームだが、60年代に活躍した伝説の競走馬「エレノア」に由来する。
美しいシルエットの1973年型フォード マスタング マッハ1は、まさに現代の「エレノア」と呼ぶに相応しい。
この映画の製作・監督・脚本・主演・スタントを務めたH・Bハリッキーは、父親が車の解体業だった影響もあり、8歳にしてクルマの運転を覚えたという筋金入りのカーキチ。
15歳の時、ジェームス・ディーンの「理由なき反抗」に影響され家出、ガソリンスタンドのアルバイトやスタントマンなどで生計をたてながらカーレースに出場し、その賞金を元手に弱冠17歳にしてカスタムボディショップを開業。その後、中古販売店、新車ディーラー、保険代理店洗車場チェーンなどを次々と展開して大成功を収め、20代にして億万長者にまで昇りつめた気鋭の青年実業家である。
そのハリッキーが、友人から聞いた話を元に長年あたためてきた自らの企画をハリウッドの大手映画会社に持ち込んだが、どこにも相手にされなかった。1970年、ハリッキー30歳の時である。
裸一貫叩き上げのハリッキーはそんなことで諦めるほど柔な男ではない。なんと彼は、「じゃあ、自分で作っちゃうも~ん」とばかり私財150万ドル(当時のレートで約4億5千万円)を投入し、自主製作に着手する。
この映画の撮影に際し、彼は実業家としての人脈をフルに活用。その結果、カリフォルニア州のロング・ビーチ、カーソン、トーランス、レドンド・ビーチの各都市の市長、市参事会、市執政官、警察署及び消防署、ロサンゼルス・カウンティ治安本部、消防部、カリフォルニア州警察の全面的な協力と援助を得ることに成功する。
そして製作期間1年、カーチェースシーンのみで7ヶ月を費やした' Gone in 60 seconds ' は、1974年、無事完成した。
ハリウッドのメジャー作品ではなかったため五都市での限定公開となっ' Gone in 60 seconds ' は、インディース作品では驚異的とも言える5万ドル(1ヶ月間)もの興行収入をあげ異例の大ヒットとなった。
日本では翌年の1975年に公開されたが、ロードショー館である渋谷東急や丸の内ピカデリーには、連日長蛇の列ができた。
余談だが、この映画の日本語字幕版には二種類のマスターフィルムが存在する。映像は同じものだが、渋谷東急で上映されたフィルムと、丸の内ピカデリーで公開されたフィルムの字幕が異なっているだ。
丸の内ピカデリーで上映されたフィルムの翻訳字幕は劇中のセリフにほぼ忠実だが、渋谷東急のバージョンは、固有名詞を無視した意訳が多い。渋谷東急バージョンでは、後半で重要な役割を担うマスタング マッハ1のコードネーム「エレノア」が、「黄色いクルマ」としか表記されなかった。
なぜ2つの翻訳字幕バージョンが存在するのか? 劇中のセリフに頻繁に出てくるクルマの専門用語が一般人には理解できないだろうという事で急遽別バージョンが作られたのか? あるいはその逆で、初めの翻訳字幕が余りにも素っ気なかったので作り直したのか? 今となっては永遠の謎である。
因みに、後に日本テレビの水曜ロードショーでテレビ放映された時の吹き替え用のセリフは、丸の内ピカデリーバージョン、つまり、劇中のセリフに近い翻訳の方が使用された。さらに余談だか、主人公ペースの声の吹き替えは、かの中尾彬氏である。
この映画が公開された3年後の1977年から、スーパーカーブームが巻き起こった。「バニンシングin 60」は、まさにその先駆けとなった作品と言えるだろう。
この作品の成功後、H・Bハリッキーは、何本かのカーアクション映画を製作したが大成功には至らなかった。そして、1989年、「バニシング in 60」の続編とも言える作品の撮影中に、アクシデントに見舞われ不運な事故死を遂げた。享年48歳。
偉大なるクルマ馬鹿一代、H・Bハリッキー、その名は全世界のクルマ好きの心に深く刻まれ、永遠に忘れ去られることはないだろう。