2010年10月29日金曜日
BC型初代レガシィ セダン RS type RAの思い出
1989年にデビューした初代レガシィ(BC/BF型)は、非常に思い出深いクルマである。
当時、富士重工は、多額の累積赤字を抱えていた。その起死回生を期して誕生したのが初代レガシィである。
レガシィに自社の命運をかけていた富士重工は、1989年9月、国内の主要紙媒体(新聞、雑誌)を対象としたプレス向け試乗会をオーストラリアのシドニーで開催した。
当時、副編集長と務めていたモータースポーツ専門誌にも富士重工広報部からご招待があったため、急遽シドニーに飛ぶ事になった。
試乗会の拠点となったシドニー郊外の街マンリーは、シドニー市内からクルマで僅か30分ほどの風光明媚なリゾート地であった。
試乗車のメインは、新たにラインナップに加えられたEJ20ターボエンジン搭載のツーリングワゴン(発売当社、ターボエンジンはセダンのみの搭載だった)「GT」と、セダンの最強モデル「RS」の内装を簡略化し、足回りを強化したモータースポーツベースモデル「RS-R」だった。
しかし、この試乗会には、とんでもない隠し玉が用意されていた。その後100台限定のスペシャルモデルとして発売される事となる「RS Type RA」のプロトタイプである。
RS Type RAは、当時はまだ創設されて間もないスバルのモータースポーツディビジョン「スバル・テクニカ・インターナショナル(STi)」がその開発を担当したモータースポーツ向けのベース車両で、搭載されるEJ20G型エンジンは、ポート研磨加工が施され、鍛造ピストン、強化クランクシャフト、強化コンロッド、強化メタルなどのチューニングパーツが惜しげもなく使い、しかもそれぞれのパーツはすべてバランス取りされ、熟練したSTiのメカニックにより手組されたものだった。
さらに、専用のクイックステアリング(13:1)が採用し、サスペンションもRA-Rに比べ大幅に強化されていた。当時のスバル開発部隊のボス・小関典幸氏によれば「初・中級レベルのラリー、ダートラであれば、アンダーガードとロールバーさえ組み込めば即参戦可能なクルマ」をコンセプトとしたマシンとのことだった。
小関氏と、後にSTiの代表取締役社長となる桂田氏の御好意により、幸運にもごく一部の媒体とモータージャーナリストのみに公開されたRS type RAのステアリングを握る機会を得た。
マンリーからクルマで20分ほどの距離にあるガストン周辺は、起伏に富んだ地形で、チューニングが施されたEJ20G型エンジンのフィーリングと、強化されたサスペンションの実力を試すには最適なロケーションだった。
まず、走り始めてすぐに感じたのが、ノーマルとは全く異なるエンジンのレスポンスだった。その滑らかさとピックアップの鋭さは、バランス取りされたエンジン特有のもの、まさにチューニングエンジンそのものであった。
常にタコメーターに目配りしておかないと、あっと言う間にレッドゾーンまで吹け上がり、フューエルカットが作動して驚くハメになる。
スプリングのバネレート、ショックアブソーバーの減衰力ともに強化された4輪ストラット式サスペンションは、各アーム類の連結部に埋め込まれたゴムブッシュの硬度も高められた。そのため、一般的な乗り心地においては、ノーマル車に比較すると若干ハーシュが多いが、ゴムブッシュのコンプライアンスチューンが施された分、ステアリング応答性は正確且つシャープなものだった。
また、ノーマルのバリアブルレシオを廃し、13:1の固定レシオに設定されたクイックステアリングのレスポンスも抜群で、手首を返すようにな小舵角でもノーズが敏感に回頭した。
オーストラリアの郊外の道路は、特別な指示が無い場合には制限速度が100km/hなので、かなりのハイペースで飛ばす事ができる。そんな環境の中で「RS Type RA」を操縦するのは、サーキットを攻めるのとは別の楽しさがあった。
後にインプレッサWRX STi Verion type RAへと受け継がれる事となるRAの系譜は、初代レガシィから始まったのである。