2010年9月29日水曜日
難波金融伝 萬田銀次郎を政界に!
目には目を、歯には歯を、悪党には超悪党を、である。
金貸しは情やのうてビジネスじゃ~! をモットーとする街金の雄・御存知、大阪ミナミの金貸し ' 萬田銀次郎 ' である。
自らを誇りを持って ' 金貸し ' と称する孤高の男。
回収のためなら、ヤクザの事務所にまで単身乗り込む豪胆さ!
「ワシに拳銃向けといて700万は無いやろ。秋田はんの慰謝料も上乗せや。誠意を込めた金額でお願いしまっさぁ」。
ヤクザをも凌駕する悪辣な取り立てぶり、いや、筋が通った恫喝、いや請求(爆)。
現世のリーサルウェポン、それは現金、キャッシュ。
それを式神の如く駆使する萬田銀次郎は、現代の陰陽師かはたまた閻魔大王か!
今の日本には萬田銀次郎のような真の ' 漢(おとこ)' が必要だ。
アメリカも中国も北朝鮮も黙らんかい!!
看護師転職サービスに不満を感じた事がある?
はい・・・(-_-;)の方は
ナースコンシェルジュ
今蘇える大藪イズム! 男は「大藪な奴」を目指す!!
' 気をつけろよ、刺すような毒気がなけりゃ、男稼業もおしまいさ '
最近、老いてゆく自分を鼓舞する訓戒として心で叫ぶ金言である(笑)
閉塞した現代、「今なぜか大藪春彦」なのだ。
「文壇の異端児」と恐れられ「大藪の前に大藪なし、大藪の後に大藪なし」と言わしめた空前絶後の作家・大藪春彦。
その主人公達に共通した「ギラギラした欲望を野望を甘いマスクの内に秘めた優雅なる野獣」というパターンは、まさに「真の男」の理想形である。
草食系男子全盛の今だからこそ「優雅なる野獣」の存在が際立つのだ。
と、いうわけで明日から男の聖典「蘇える金狼」と「汚れた英雄」を再読する事にした。
「優雅なる野獣」を目指し頑張るぞ(笑)。
看護師転職サービスに不満を感じた事がある?
はい・・・(-_-;)の方は
ナースコンシェルジュ
志穂美悦子 ' 必殺女拳士 '
志穂美悦子はアクション女優の始祖であり、唯一無二、空前絶後の存在である。
1974年12月に公開された「女必殺拳 危機一髪」で衝撃的なスクリーンデビューを飾った志穂美は、日本映画界に「美系アクション女優」という新たなカテゴリーを確立した。
1976年公開の「必殺女拳士」は、香港のカンフーマスター・李紅竜を主人公とする「女必殺拳3部作」でその地位を不動のものとした志穂美が、新境地を切り開くべく挑んだ意欲作である。
オープニングのトレーニングシーンで、息吹の際に子役から志穂美に変わるシーンは何度観ても鳥肌が立つ。歴史に残るオープニングシーンである。
しかし、これってトレーニングというよりも幼児虐待、イジメだよな~(爆)。
東映空手アクションに小難しい筋書き&突っ込みは無用(爆爆)。
というわけで、この作品も勧善懲悪、それに親の敵討と怨恨・復讐という古典的ファクターが加味されている。
汚い奴、悪い奴を正義の鉄拳で制裁するというワンパターンに何ら変わりはない。
悪い奴はとことん悪く、「あ~、こいつだったら殺されてしょうがね~な~」と心底思ってしまうほど演技力+濃ゆい個性派悪役俳優のオンパレード(爆爆)。本当に東映ってワルの宝庫だよな(爆)。
宿命を背負った美しき乙女の復讐譚を一皮剥けた志穂美悦子が見事に演じきっている。
惚れ直すぜ! エッちゃん!!
看護師転職サービスに不満を感じた事がある?
はい・・・(-_-;)の方は
ナースコンシェルジュ
1974年12月に公開された「女必殺拳 危機一髪」で衝撃的なスクリーンデビューを飾った志穂美は、日本映画界に「美系アクション女優」という新たなカテゴリーを確立した。
1976年公開の「必殺女拳士」は、香港のカンフーマスター・李紅竜を主人公とする「女必殺拳3部作」でその地位を不動のものとした志穂美が、新境地を切り開くべく挑んだ意欲作である。
オープニングのトレーニングシーンで、息吹の際に子役から志穂美に変わるシーンは何度観ても鳥肌が立つ。歴史に残るオープニングシーンである。
しかし、これってトレーニングというよりも幼児虐待、イジメだよな~(爆)。
東映空手アクションに小難しい筋書き&突っ込みは無用(爆爆)。
というわけで、この作品も勧善懲悪、それに親の敵討と怨恨・復讐という古典的ファクターが加味されている。
汚い奴、悪い奴を正義の鉄拳で制裁するというワンパターンに何ら変わりはない。
悪い奴はとことん悪く、「あ~、こいつだったら殺されてしょうがね~な~」と心底思ってしまうほど演技力+濃ゆい個性派悪役俳優のオンパレード(爆爆)。本当に東映ってワルの宝庫だよな(爆)。
宿命を背負った美しき乙女の復讐譚を一皮剥けた志穂美悦子が見事に演じきっている。
惚れ直すぜ! エッちゃん!!
看護師転職サービスに不満を感じた事がある?
はい・・・(-_-;)の方は
ナースコンシェルジュ
2010年9月26日日曜日
1986年 ファット・ギジット怪異譚
1986年、それは自分のバスフィッシング人生最良の年である。
偶然購入したファット・ギジットというソフトルアーが、神の御業の如き数々の奇跡を起こしたのである。
ファット・ギジットは、チューブベイトに分類されるソフトルアーで、その形状からスクイッド(イカ)タイプと呼ばれるものだ。
セットップは簡単。ファット・ギジットの頭に、1.5gほどのジグヘッドを取り付けるだけ。ライトリグなので、ワイドスプールのスピニングリールと、ティップが敏感な5.5ft~6.0ftのロッドとの組み合わせがベストタックルとなる。
ファット・ギジットを初めて購入したのは、東急池上線の蓮沼駅近くにある「バスメイト」だった。
バスメイトは、JBTAの設立にも携わったバスフィッシング界の重鎮、徳永健三氏が経営する超有名プロショップで、80年代を代表するバストレンドの発信基地だった。
各色5~6本に小分けされ販売されていたファット・ギジットの中から、「くすんだピンクに銀ラメ」と、「黒にシルバーに銀ラメ」、そして「グリーンに銀ラメ」の計3種類をジグヘッドと共に購入した。
その中の一つ、「くすんだピンクに銀ラメ」に ' 神 ' は宿っていた。
購入した翌日の夜、バスフィッシングを始めて間もない友人と津久井湖の沼本ワンドにナイトゲームに出かけた。
漆黒の闇の中でキャスティングを繰り返すこと小1時間、いきなり友人のロッドが満月のように絞り込まれた。
デカい!
オカッパリ、しかも6ポンドラインという絶体絶命の状況だったが、なんとか、だましだまし岸まで引き寄せ、ハンドライディングに成功。
拳がスポッポリと入ってしまうほどの巨大な口は、まるで鯉のぼりのようだった。メジャーで計ると、なんと53cmのランカーバス。津久井湖の歴代ランキングでもトップ10に入るであろう大物である。
その時のバスは剥製にされ、現在でも友人宅のリビングの壁に飾られている。その巨大な口には「くすんだピンクに銀ラメ」のファット・ギジットがぶら下がっている。
奇跡はさらに続いた。ところは同じ津久井湖ポイントは津久井観光のボート乗り場付近のオカッパリ。
日曜日、繰り出した沢山のアングラー達で賑わう岸辺、超ハイプレッシャーの状況下にも関わらず、なんと第一投目に35cmがヒット。リリースしてキャストすると再びヒット。周囲が唖然とするなか、連続ヒットは5投目まで続いた。
そして、クライマックスとも言える奇跡が、ゴールデンウィーク直前の山中湖で起きた。ポイントは平野ワンドのボート乗り場付近のオカッパリ。
当日は、早朝に河口湖のハワイ前(ボート屋の名前。ワイハの事ではないww)のオカッパリを攻め、レーベルのジョインテッドミノーで30cmクラスのバスを2匹ゲットしていた。しかし、午前8時を過ぎたあたりから強風が吹き始めたため、山中湖へ移動する事となった。
途中、早めのブランチをとり、山中湖へ到着したのは午後1時頃。普通であれば、とっくにゴールデンタイムは終わっている時間帯だが、冗談半分で「くすんだピンクに銀ラメ」のファット・ギジットをセットして投げてみた。
すると、第一投目から水面が炸裂し、25cmくらいの小振りのバスが手元に飛んできた。すでに何度もファット・ギジットの威力を目の当たりにしてきたため、その時は別段特別な感動も湧かなかった。しかし、それはその後に起きる奇跡のプロローグだった。
第二投目、再びヒット。五投目まではいつもの事と思っていた。しかし、五投目以降もその勢いは止まらなかった。いわゆるひとつの「入れ食い」状態が延々と続いた。パチンコで言えばフィーバー連チャン状態が、延々と2時間近くも続いたのだ!
恐らく、気力があればまだまだ続けられたと思うが、連続ヒット100匹目を越えた時点で疲れ果てた。ハンドランディングの繰り返しで、右手の親指の腹はバスの下顎の歯でザラザラになり、キャスティングを繰り返した右腕は軽い腱鞘炎を起こしていた。まさに「ちぎっては投げ、ちぎっては投げ」状態(笑)。
30分ほど休憩し、さすがにもう終わりだろうと思いつつ、再度キャスティングしたみた。フォーリングさせずにトップウォーターを滑らせながらタダ引きしていると、岸から5メートルほどの沖合で、なんと、まるで映画「ジョーズ」のホオジロザメの如く背びれを水面に露わにした2匹の大型バスが争うように追って来るではないか!
そのうちの一匹がヒット。それまでの平均サイズ(25cm~35cm)の時とは全く異なる重みを右腕に感じた。上がってきたのはなんと45cmのビッグワン。大型バスが少ない山中湖ではトロフィーザイズのバスである。
口腔内の薄皮一枚に、「くすんだピンクに銀ラメ」のファット・ギジットとジグヘッドが、かろうじて引っかかっていた。暫し茫然としていると、周囲のギャラリーから拍手と歓声が沸き起こった。
この魔法のルアーとも言えるファット・ギジット。実は「くすんだピンクに銀ラメ」以外のものには一切ヒットがなかった。
なぜかその年のバスは、ファット・ギジットの「くすんだピンクと銀ラメ」にのみ激しい反応を示したのである。
この奇跡とも怪異現象とも思える現象は、1986年のシーズン中ずっと続いた。しかし、不思議な事に、翌年になると、「くすんだピンクに銀ラメ」は、どこのバスポンドでもまったくヒットしなくなってしまった。
人間、長く生きていれば不思議な事の一つや二つはあるものだが、「神通力」とも言える不思議な力を持った「くすんだピンクと銀ラメ」のファット・ギジット怪異譚はその中でも白眉とも言える体験であった。
看護師転職サービスに不満を感じた事がある?
はい・・・(-_-;)の方は
ナースコンシェルジュ
2010年9月24日金曜日
バニシングポイント
デンバー・カルフォルニア間を15時間で走り切る賭けをした一人の陸送屋の暴走を通し、長期化するベトナム戦争により荒廃したアメリカ社会の狂気、閉塞感を見事に描き出した1971年製作の映画「バニシングポイント」は、激動の70年代の幕開けにふさわしい作品と言えるだろう。
スーパーチャージャーで武装したV8エンジンを搭載したダッジ・チャレンジャーの疾走は、腐敗したアメリカ社会に対する大衆の怒りそのものである。
盲目のDJスーパー・ソウルのファンキーなMCに絡む70年代ロック&カントリーの選曲が絶妙だ。
ランチャ・デルタ・インテグラーレの秘蔵映像
Gr.A施行の1987年から92年までの6年間、無敵のチャンピオンマシンとしてWRCに君臨したランチャ・デルタ・インテグラーレ。
デルタHF 4WD⇒デルタHF Integrale⇒デルタHF Integrale 16v⇒デルタHF Integrale 16V Evoluzione⇒デルタHF Integrale 16V EvoluzioneⅡと、5世代に渡り進化を遂げたこのマシンこそ真のラリーキラーである。
この映像はワークス・ランチャにとってベストシーズンとなった1990年に製作されたもの。
ランチャの熱きパトスを感じてほしい!
看護師転職サービスに不満を感じた事がある?
はい・・・(-_-;)の方は
ナースコンシェルジュ
2010年9月23日木曜日
FORD RS200 Gr.B
フォード・ワークスラリーチームが総力を結集して作り上げたGr.Bマシン・フォードRS200は、1984年のトリノモーターショーで初めて報道関係者の前にその姿を現した。
エスコートに代表される無骨なフォードのラリーカーのイメージとは大きく異なるグラマラスで丸みを帯びたボディデザインのRS200は、アルミハニカムを採用したモノコックとチューブラーフレームで構成された強靭なシャシーがその骨格となった。
前後のサスペンションには、後期型Gr.Bマシンのトレンドともいえるツイン・ショックアブソーバがフロント、リヤともに採用された。
パワーユニットは名機・BDAの遺伝子を受け継ぐBDTエンジンをミドシップに搭載。コンペティションで実績のあるパワーユニットを選択することにより、開発時間とコストの大幅な短縮・削減が図られている。
駆動システムは可変式トルク配分4WDを採用している。
一見すると当時のGr.Bマシンの王道ともいえるマシンコンセプトが踏襲されたように見受けられるRS200だが、細部に目を移すとライバルマシンには見られない斬新なテクノロジーが凝縮されている。
その代表例が、エンジンギヤボックスの搭載位置だ。RS200のギヤボックスは、エンジンから切り離され、フロントに搭載されている。これは前後の重量配分を適正化するためにとられた措置であり、その結果、ドライブトレーンは2本のプロペラシャフトを持った複雑な構造となったものの、前後の重量配分は理想値の50:50を実現している。
こうしたこだわりと斬新な手法は、ラリー界の名門・フォードならではと言えるだろう。
1985年7月の英国国内選手権にプロトタイプカーとして出場したRS200は、現在フォードのワークスラリーチームを率いるMスポーツの代表、マルコム・ウイルソンのドライビングによりその圧倒的な速さを見せつけた。
しかしながら、生産の遅れからWRCデビューは遅れ、1986年のスウェディッシュラリーまで延期された。
トップドライバーであるスティグ・ブロンキストを配し、万全の体制で臨んだデビュー戦は、エンジントラブルのため惨敗。唯一、カール・グランデルが3位入賞を果たしたことだけが朗報となった。そして、同時にそれがフォードRS200のベストリザルトとなった。
Gr.B最後のシーズンとなった1986年の最終戦RACラリーにおいて、必勝を期したフォード・ワークスチームは4台体制という万全の布陣で臨んだが、結局優勝することはできなかった。
そして、後世、悲運の名車と語りつがれることとなるフォードRS200は、そのポテンシャルを高く評価されながらも、わずか1年間、4戦を戦ったのみでWRCの表舞台から消えていったのである。
看護師転職サービスに不満を感じた事がある?
はい・・・(-_-;)の方は
ナースコンシェルジュ
巨匠クロード・ルルーシュの異作 ' Rendezvous (ランデブー) '
1976年に製作された幻のショートムービー “ C'etait Un Rendezvous(ランデブー)”
早朝のパリ市内をフェラーリ275GTBが全開で駆け抜けるというこの作品は、全編がフェラーリ275GTBのフロント部分に据え付けられたカメラの迫力溢れるオンボード映像と、V12エンジンが奏でる官能的なフェラーリサウンドのみで構成さている。
この作品は「男と女」の監督として余りにも有名なフランス映画界の巨匠クロード・ルルーシュが製作・監督を手掛けた異作。
本編に登場し、パリ市内を爆走するのは当時ルルーシュ自身が所有していたフェラーリ275GTB。
そのステアリングを託されたのは1955年のモナコGPにおいてフェラーリで優勝を飾ったF1ドライバーのモーリス・トランティニアン(と言われている)。因みにトランティニアンは50年代を代表する名ドライバーの一人である。
しかも、驚く事に撮影に際しては当局の撮影許可を取得せず行われた(恐らく申請しても危険と判断され却下されていただろう)。
つまり、F1ドライバーによるパリ市内ゲリラ暴走である。
これ以上の臨場感と緊迫感はあるまい。もちろんこの時代、CGの類は一切ない。すべてがぶっけ本番。
パリ市内を走った経験がある方ならおわかりかと思うが、いくら早朝とは言え、あの交通環境、あの路面を、あの狭い道をあのスピードで駆け抜けるのはまさに狂気の沙汰である(あのが多くてすみまんせん)!
撮影後、ルルーシュ監督はパリ市警に逮捕されたというオチがつくが、ドライバーはお咎め無しだったらしい。
' Rendezvous (ランデブー)'というシャレたタイトルの意味は本編の最後で明らかになる。
早朝のパリ市内をフェラーリ275GTBが全開で駆け抜けるというこの作品は、全編がフェラーリ275GTBのフロント部分に据え付けられたカメラの迫力溢れるオンボード映像と、V12エンジンが奏でる官能的なフェラーリサウンドのみで構成さている。
この作品は「男と女」の監督として余りにも有名なフランス映画界の巨匠クロード・ルルーシュが製作・監督を手掛けた異作。
本編に登場し、パリ市内を爆走するのは当時ルルーシュ自身が所有していたフェラーリ275GTB。
そのステアリングを託されたのは1955年のモナコGPにおいてフェラーリで優勝を飾ったF1ドライバーのモーリス・トランティニアン(と言われている)。因みにトランティニアンは50年代を代表する名ドライバーの一人である。
しかも、驚く事に撮影に際しては当局の撮影許可を取得せず行われた(恐らく申請しても危険と判断され却下されていただろう)。
つまり、F1ドライバーによるパリ市内ゲリラ暴走である。
これ以上の臨場感と緊迫感はあるまい。もちろんこの時代、CGの類は一切ない。すべてがぶっけ本番。
パリ市内を走った経験がある方ならおわかりかと思うが、いくら早朝とは言え、あの交通環境、あの路面を、あの狭い道をあのスピードで駆け抜けるのはまさに狂気の沙汰である(あのが多くてすみまんせん)!
撮影後、ルルーシュ監督はパリ市警に逮捕されたというオチがつくが、ドライバーはお咎め無しだったらしい。
' Rendezvous (ランデブー)'というシャレたタイトルの意味は本編の最後で明らかになる。
TOYOTA 2000GT
歴史上その時代では考えられない高度な技術で作られた物や、明らかに異なる時代の生物が存在した痕跡が見つかる不可思議な現象が時として起こる。
そうした物を総称して「オーパーツ」と呼ぶ。
1967年~1970年の5年間に渡りトヨタ自動車が限定生産し販売した幻の名車 ' TOYOTA 2000GT ' もある意味現代のオーパーツと言えるだろう。
ヤマハ発動機の全面的技術供与を受け、当時のトヨタ自動車が持てる技術の粋を結集して創られた2000GTは、ロングノーズ・ショートデッキの流麗なボディフォルムといい、ライバルである外国製スポーツカーをも凌駕する卓越した動力性能といい、そして同社の高級車であるクラウンが2台、大衆車のカローラが6台買える238万円(現代の1500万円以上に相当)という破格の価格設定といい、何もかもが時代の枠を超越したクルマであった。
トヨタ自動車は、TOYOTA 2000GTの高性能と信頼性を実証するため、1966年10月1日から4日にかけ、茨城県筑波郡谷田部町の自動車高速試験場で国際記録樹立のためのスピード・トライアルに挑戦した。
挑んだ種目はFIAのスポーツ法典Eクラス(排気量1500~2000cc)の6時間、12時間、24時間、48時間、72時間(排気量無制限)、1000マイル、2000マイル、5000マイル、10000マイル(排気量無制限)、2000km、5000km、10000km、15000km(排気量無制限)の合計13カテゴリー。
途中台風に見舞われる過酷な条件の中、見事に走り切ったTOYOTA 2000GTは、5つのカテゴリーにおいて見事世界新記録を樹立した。
時はゴールデン60's。日本のモータリゼーションの幕開け前夜。
当時はクルマこそが若者達、いや、老若男女を問わず日本人の憧れ、夢と希望であった。
そんな時代の仇花的存在として誕生したのが空前絶後にして究極のGTカー・TOYOTA 200GTなのである。
日本の自動車産業黎明期の1960年代に、フェラーリやポルシェ、そしてジャガーと肩を並べるスーパースポーツを創りあげたトヨタとヤマハ。
日本の自動車メーカーよ、誇りと自信を持って、モノ造りの原点に立ち返るがいい!
看護師転職サービスに不満を感じた事がある?
はい・・・(-_-;)の方は
ナースコンシェルジュ
2010年9月22日水曜日
豪華絢爛 オンボード・スペシャル・コンピレーション(自家製)
仕事のついでに撮り貯めていた映像素材の中から、選りすぐったオンボード映像をスペシャルコンピレーションとして再編集してみた。
映像は2000~2002年頃の物が中心で、現役バリバリのペター・ソルベルグ選手や新井選手、田口選手、それにインプレッションをお願いしていた桜井幸彦選手など豪華な顔ぶれ。
超一流選手の激走をタップリと楽しんでほしい。
Planning&Produce SPECIAL SATEGでは映像制作も承っております。
お仕事のご相談、ご依頼はお気軽にどうぞ。
看護師転職サービスに不満を感じた事がある?
はい・・・(-_-;)の方は
ナースコンシェルジュ
映像は2000~2002年頃の物が中心で、現役バリバリのペター・ソルベルグ選手や新井選手、田口選手、それにインプレッションをお願いしていた桜井幸彦選手など豪華な顔ぶれ。
超一流選手の激走をタップリと楽しんでほしい。
Planning&Produce SPECIAL SATEGでは映像制作も承っております。
お仕事のご相談、ご依頼はお気軽にどうぞ。
看護師転職サービスに不満を感じた事がある?
はい・・・(-_-;)の方は
ナースコンシェルジュ
2010年9月21日火曜日
悲運のGr.Bマシン ' 三菱スタリオン4WD '
1984年7月、南フランスのドラギニオン市郊外サンジュエルにあるフランス陸軍演習場を舞台に開催された第9回ミル・ピスト・ラリーにおいて、一台のGr.Bマシンが鮮烈なデビューを飾った。
そのマシンこそ、後の世に悲運のラリーカーと語り継がれる事となる ' 三菱スタリオン4WD ' である。
ミル・ピスト・ラリーはフランスのナショナルラリーだったが、ホモロゲーションを必要としないエクスペリメンタル(未公認)クラスが設けられていたため、世界各国の自動車メーカーにとっては、デビュー直前のマシンの実戦テストが行える絶好のイベントだった。
アンドリュー・コーワン率いるラリーアート・ヨーロッパは、スタリオン4WDの開発ドライバーでもあるラッセ・ランピにステアリングを託し、勇躍真夏のコート・ダジュールに乗り込んだ。
センターデフにビスカスLSDを組み込んだん ' ファーガソン・システム ' をいち早く採用したスタリオン4WDの走りはラリー初日からライバルを圧倒、そのポテンシャルの高さを実戦で証明し、WRCでの活躍を期待させた。
しかし、三菱の突然のラリー活動休止によりその夢は幻に終わった。
「たら」、「れば」がないのが勝負の世界。しかし、もしスタリオン4WDがWRCに参戦していたらライバルのGr.Bマシンを相手にどのような戦いをしたのか? その興味が尽きる事はない。
そのマシンこそ、後の世に悲運のラリーカーと語り継がれる事となる ' 三菱スタリオン4WD ' である。
ミル・ピスト・ラリーはフランスのナショナルラリーだったが、ホモロゲーションを必要としないエクスペリメンタル(未公認)クラスが設けられていたため、世界各国の自動車メーカーにとっては、デビュー直前のマシンの実戦テストが行える絶好のイベントだった。
アンドリュー・コーワン率いるラリーアート・ヨーロッパは、スタリオン4WDの開発ドライバーでもあるラッセ・ランピにステアリングを託し、勇躍真夏のコート・ダジュールに乗り込んだ。
センターデフにビスカスLSDを組み込んだん ' ファーガソン・システム ' をいち早く採用したスタリオン4WDの走りはラリー初日からライバルを圧倒、そのポテンシャルの高さを実戦で証明し、WRCでの活躍を期待させた。
しかし、三菱の突然のラリー活動休止によりその夢は幻に終わった。
「たら」、「れば」がないのが勝負の世界。しかし、もしスタリオン4WDがWRCに参戦していたらライバルのGr.Bマシンを相手にどのような戦いをしたのか? その興味が尽きる事はない。
ルノー5ターボ
軽量コンパクトなFFのツーボックスカーであるルノー5をベースに、強力なターボエンジンをミドシップに搭載したスーパーマシン、それがルノー5ターボである。
このモデルの発表は1978年だが、世界ラリー選手権への参戦は1980年のツール・ド・コルスがデビュー戦となる。ブルーノ・サビーのドライブによりプライベートながら4位入賞を果たし、そのポテンシャルの高さを見せつけた。
1981年のモンテカルロラリーではジャン・ラニョッティが総合優勝。1982年のモンテカルロでも5位と6位。ツール・ド・コルスで優勝、アイボリーコーストで4位となる。1983年にグループBのルールが導入されると、優勝からは遠ざかったが、ツール・ド・コルスでエボリューションモデルを発表し、モンテカルロ、ポルトガルラリーで上位入賞を果たす。
1985年には排気量1527cc、350馬力のルノー・マキシ5ターボが世界ラリー選手権に投入され、名手ラニョッティのドライビングによりツール・ド・コルスで見事デビュー・ウィンを飾る。翌86年にはフランソワ・シャトリオがツール・ド・コルスで2位、ヨーキム・ムーティノがポルトガルラリーで優勝を果たす。
1994年のワールドラリーチャンピオン、ディディエ・オリオールが初めてツール・ド・コルスに出場したのが1984年。マシンはルノー5ターボだった。翌1985年のツール・ド・コルスはルノー・マキシ5(サンク)ターボで参戦している。
カルロス・サインツも1986年のスペインラリー選手権にルノー・マキシ5ターボで出場。11戦のうち6戦で優勝してシリーズ2位の成績を残している。
世界ラリー選手権史上に名を残す、幾多のチャンピオンドライバーを育てた究極のスペシャルラリーマシン、それがルノー5ターボなのである。
看護師転職サービスに不満を感じた事がある?
はい・・・(-_-;)の方は
ナースコンシェルジュ
911 GT3 R Hybrid in Nürburgring 24h Race 2010
2010年5月15日・16日、ドイツ、ニュルブルクリンクサーキット北コース、通称 ' ノルド・シュライフェ ' で開催された2010ニュルブルクリンク24時間耐久レースに、全世界のモータースポーツファンが注目する一台のマシンがエントリーした。
ポルシェの新世代レーシングマシン ' 911 GT3 R Hybrid ' である。
フロントアクスルにそれぞれ60kWを発生する2基のモーターを配置して前輪を駆動、リヤに搭載されや最高出力480PSの4リッター水平対向6気筒エンジンをアシストする独自のハイブリッドシステムを採用した911 GT3 R Hybrid は、フロントモーターへの電源供給をドライバーズシートの隣に搭載されたエレクトリカルフライホイールパワージェネレーターにより行う。
このフライホイールジェネレーターの最高回転数は40,000rpmに達しそれ自体が運動エネルギーを蓄える事が可能である。
さらに、ブレーキング時にはフロントアクスルの2基のモーターがジェネレーターとして作動し、フライホイールジェネレーターにエネルギーを蓄積、コーナー脱出時や追い越しの際など、その必要に応じてフライホイールに蓄えられたエネルギーを使う事ができる。
レーススタートから12時間55分後、911 GT3 R Hybridは並みいる強豪を抑えトップに立っていた!
その後も順調に周回を重ねたニューカマーは、22時間15分で無念のメカニカルトラブルにより無念のリタイアを喫した。
しかし、その鮮烈な走りはモータースポーツ新時代の幕開けにふさわしいものだった。
看護師転職サービスに不満を感じた事がある?
はい・・・(-_-;)の方は
ナースコンシェルジュ
登録:
投稿 (Atom)