2011年6月23日木曜日
日本のルアーフィッシング草創期 1970年代 Part.1
1960年代後半から一般に普及し始めたルアーフィッシングは、戦後第2次ベビーブーマーである昭和30年代前半生まれの子供達が小学生高学年から中学生となった1970年代初頭、ついに本格的なブレイクポイントを迎えた。
1米ドルは360円の固定相場の時代。 東京オリンピック、大阪万国博覧会とビッグイベントを立て続けに成功させて高度経済の大波に乗る日本では国民生活にゆとりが生まれ、急速に欧米志向が高まっていた。
そんな中、ルアーフィッシングは舶来の「カッコイイ釣り」として釣り雑誌を中心に紹介され、全国の釣り少年達を夢中にさせた。
当時、ターゲットとなる対象魚別のタックルや釣方などが現在ほど細分化されておらず、専門書や釣り雑誌などにおいても大雑把な魚種別の推奨ルアーやタックルの紹介に留まる程度だった。
ブラックバスはプラグ、トラウトは湖がスプーンで、川がスピナーといった感じだ。
この大枠のガイドラインに沿って、みんな自由に使いたいルアーを使っていた。ルアーを投げて魚が釣れれば感動! そんな牧歌的な時代だった。
ルアーフィッシングで使用するリールやロッド、それにルアーなどはそのほとんどが舶来品。
国産品ではオリンピック、ダイワ精工、NFTといった国内釣り具メーカーの製品もあったが、ブランド力に勝る外国製品とは勝負にならなかった。
特にリールに関しては歴然。「ベイトリールのロレックス」と絶賛されたスウェーデン・ABU(アブ)社の傑作・アンバサダーシリーズや、その繊細かつ緻密な回転で「スピニングリールのカルティエ」とも称されたミッチェル社の308、408などに比較するとまさに雲泥の差であった。
当時の日本全国のルアー少年達は、湖畔で外国製のタックルを使いルアーをキャスティングする自分を夢見て、お年玉やなけ無しのお小遣いをせっせと貯金したものだった。
その頃、ルアー少年達の憧れだったのは釣り雑誌に頻繁に登場するルアーフィッシングのカリスマ伝道師達だった。
日本のルアー草創期からルアー&フライフィッシングを紹介し、ブームの牽引役を担った釣り雑誌「月刊フィッシング」で有名だった「ツネチュウ」あるいは「チュウさん」こと常見忠氏(現・株式会社セントラルフィッシング代表取締役)である。
常見氏はトラウト系のメンターだった。数あるルアーの中でも、その原点と言われているスプーンのスペシャリストである。
常見さんを一躍有名にしたのは、新潟県・銀山湖での大イワナ釣り。70センチオーバーの大イワナと死闘を演じた伝説は時を経た現在に至るまで語り継がれている。
その体験から生まれたのが国産スプーンの名作「銀山」である。水中で七色に輝く虹の彩光は、百戦錬磨の湖の主まで狂わせてしまうのだ。
記憶な確かならば、常見氏はかの釣好きの文豪・開高健氏の銀山湖釣行にも同行している。
日本ルアーフィッシングの草創期を牽引したもう一人の立役者、それは井上博司さんだろう。
井上氏は、キラ星のごとく存在するルアーを日本の対象魚別に分類し、釣魚別使用ルアーリコメンデーションとも言える独自のガイドラインを設定した初めての人物だ。
先述した「ブラックバスはプラグ、トラウトは湖がスプーンで、川がスピナー」といったデファクトスタンダードは氏によって制定されたと言っても過言ではない。
井上氏は様々な釣り雑誌やスポーツ新聞などに登場しルアーフィッシングの啓蒙に努めたが、当時のルアー少年達には特に老舗名門誌「釣りマガジン」の連載が特に好評だった。
Q&A方式による具体的且つ分かりやすい解説は、右も左も分からぬ初心者にとっては最適なアドバイスとなったのだった。